山田正紀著『妖鳥(ハルピュイア)』幻冬舎文庫、1999.11(1997.4)

傑作『神曲法廷』(講談社ノベルス、1998)に先行する、以下「宗教的古典をモティーフとする本格ミステリ・シリーズ」と勝手に呼ばせて貰う連作の第一弾。余りにも素晴らし過ぎる。本書の基本モティーフは当然の事ながらタイトルにもなっているハルピュイアの登場する「ギリシア神話」。もう一つ重要なモティーフとして、「曼陀羅」が用いられる。この辺り、麻耶雄嵩のある作品、ないしは中井英夫のこれまたある作品と通じているのだけれど、ネタ晴らしになるので、言及はここ迄にしたい。

山田正紀著『螺旋(スパイラル)』幻冬舎文庫、2000.2(1997.8)

「宗教的古典をモティーフとする本格ミステリ・シリーズ」第二弾。これまた、余りにも素晴らしい。「他の言葉を知らないのか?」なんて云わないで欲しい。本当に素晴らしいのだ。基本モティーフは『旧約聖書』の中でも特に「創世記」。修験者も登場するけれど、修験道は余り重要な役割を果たさない。なお、本書における所謂「時刻表」トリックは、舞台となっている房総半島に住んでいるものとしてはバレバレでした。茂原には、家庭教師をしに行っていた事があったりするのです。それは兎も角として、本書に登場する謎解き役の「風水林太郎」なる人物は、「景観心理学」なる学問を提唱し、学界で干されているという設定だけれど、どう考えてもこの人物のモデルは渡邊欣雄氏ですよね。ただ、渡邊氏は現在東アジアの宗教と親族研究の重鎮とも言える人なので、可成りズレてはいます。しかし、本書もまた麻耶雄嵩のある作品と通底している。1990年代後半のミステリの特徴なのかな、などとも思ったりする。

さて、ここで以上2作及び『神曲法廷』に共通する事を幾つか指摘しておきたい。
その一。「虐げられた若い女性」が作品中で重要な位置を占める。その二。「異言を呟くエキセントリックな人物」が作品中で重要な位置を占める。その三は既に述べた通り、宗教的古典を基本モティーフとしていること、となる。『阿弥陀(パズル)』(幻冬舎ノベルス、1997)、『仮面(ペルソナ)』(同、1998)は未読だけれど、多分この3作と繋がっているのではないかと想像する。タイトルからして、どう考えてもね。多分本年中になされるだろう文庫化を待ち望む。

大原まり子著『戦争を演じた神々たち[全]』ハヤカワ文庫、2000.2

第15回日本SF大賞を受賞した『戦争を演じた神々たち』(アスキー、1994)と、『戦争を演じた神々たちU』(アスキー、1997)を合本化した連作短編集。「連作」とはいっても、個々の話自体には繋がりは殆どなくて、基本的な状況設定を共有している、という意味である。基本的にはハードSF。そこに神話的ないし昔話的ないし伝説的モティーフが交錯する。多分1997年に書かれたのであろう「世界でいちばん美しい男」が何と言っても面白かった。そのラストは、明らかにその年の日本SF大賞受賞作(名称は別に記す必要もないだろう。)の陰画である。要は、「一旦全部御破算にして二人で最初から始める。」ということですね。美しい。私も、全部御破算にしたいよ。それが出来ないから、「終末論」は存在するのです。大胆な仮説だけれど。尚、同作に続く、サイバー・パンクからスペース・オペラ迄、ありとあらゆるSF的意匠を注ぎ込んだ「戦争の起源」も大変面白い。M.MaussあるいはG.Batailleかいな。「蕩尽」ねえ。ふむふむ。(2000/02/29)

小野不由美著『東亰異聞』新潮文庫、1999.5(1994)

明治29年の「東亰」を舞台とする、伝奇ミステリの体裁を取ったミステリないし伝奇小説。どっちが正しいのかは御一読頂ければ分かります。この本の後に書かれた『屍鬼』でもそうだけれど、この人の重厚な文体持続力と(蛇足だけれど、本書の文体は久生十蘭・石川淳辺りを物凄く意識しているように思う。)、舞台設定構築力と、パラダイム・チェンジ力は途方もないものだと思う。「陰陽師が劇中で重要な役割を果たす」、という構図は、本書の初出と同年に刊行され始めた京極夏彦の一連の作品群(御存知「中禅寺」シリーズ)にも引き継がれ、ここ2年位のエンタテインメント小説・コミック界はある種「陰陽師ブーム」とすら言えるような状況になっているのだけれど、その先駆的な作品として、評価されるべきものかも知れない。私もその一人だったのだけれど、うっかり本書を読み忘れていた方は早い内に読んでおきましょう。1990年代前半に書かれた、1990年代後半のミステリ界を予見する傑作です。(2000/03/06)

坂東眞砂子著『山妣(やまはは) 上・下』新潮文庫、2000.1(1996)

『死国』などで知られる作家・坂東眞砂子による、第116回直木三十五賞受賞作である。時は明治の中頃。新潟の山村にある地主・安部家に、村芝居の指導をするため二人の旅芸人、涼之助と扇水が訪れる。「ふたなり」の涼之助は、師匠の扇水と肉体関係があった。美しくも妖しい涼之助を、村娘・妙は訝しむが、盲目の妙の姉は密かに恋焦がれる。同時に、地主の若旦那・鍵蔵の妻としての暮らしに飽き始めた美しい女・てるは、涼之助との密会を始める。こうして、静かに続いて来た山間の村は少しずつ崩壊していくのだった…、というお話。うーん、何とも凄まじい物語であり、それと同時にこの取材力は一体何なのだろうというほどのリアリティに満ちた作品。間違いなく著者の代表作になるだろう作品にして、空前絶後の傑作だと思う。(2000/03/03)

竹本健治著『殺戮のための超・絶・技・巧 パーミリオンのネコ1』ハルキ文庫、1999.11(1988)

竹本健治著『タンブーラの人形つかい パーミリオンのネコ2』ハルキ文庫、2000.1(1988)

竹本健治著『兇殺のミッシング・リンク パーミリオンのネコ3』ハルキ文庫、2000.2(1989)

面倒なので3冊纏める。殆んど入手不可能であったこのシリーズだけれど、ハルキ文庫はやってくれる。作者による「文庫版あとがき」によれば、本シリーズは当初「マンガの原作」として構想され、結局その企画がポシャッて、小説として発表された、という事になるらしい。何だか、笠井潔の「ヴァンパイアー戦争」シリーズみたいだね。こちらは大成功し、完結に至った訳だけれど、「パーミリオンのネコ」シリーズの方は第4弾の短編集『魔の四面体≠フ悪霊』(1990、トクマノベルズ ミオ。未見。間もなくハルキ文庫から出る筈。)まで出た段階でペンディングとなっている。これを機会に、続編が書かれることを望む。第1弾から第3弾まで、順番に構想が膨らんでいって、話自体も等比級数的に(大袈裟な…。)面白くなっていくのだ。これで終わりにしては勿体ないですよ。

ここらで中身に入ろうと思ったのだが、25歳位で極めて身体能力の高い「RR星間連合中央保安警察機構総司令部」所属の女性銀河スナイパーを主人公とするミステリ色の強いSFアクション・ノベル、と要約して終わりにする。実の所、第2弾迄はあんまり関心出来る内容ではないのだけれど(なんせ、話が一直線的過ぎる。)、第3弾は一級品でしょう。黒幕の正体は話半ばで分かってしまったけれど。本シリーズは、当然の事ながらサイボーグ・フェミニズム的な批評も可能だけれど、これもまた面倒なので止める。そういう作業は小谷真理に任せておこう。

ちなみに、本シリーズに彩りを添えるイメージ喚起力豊かな表紙の絵は、同シリーズのコミック化話があった際に作画を担当する予定だったという末武康光なる人物の手になるもの。竹本とは高校時代からの知人ということだけれど、実はこの人、大友克洋の『アキラ』の背景を描いていた人なんだそうだ。『入神』にも参加していた筈だけど、全面的、という訳ではなかったようだ。あの作品には背景が殆んど描かれていないんだもん(と思って見直したら、クレジットされていませんでした。何故?)。

以下、蛇足。第2弾の解説で大森望は「本書で扱われているのは、マインドコントロールや後催眠暗示に近い、心理的な操りだ。」(p.256)と述べているが、これは間違いで、ここで扱われているのは殆んど物理的手段に近いとすら言える「洗脳」である。竹本も、ちゃんとこの語を用いている。前にも何処かで打ち込んだけれど、マインドコントロールと洗脳ははっきりと区別されなければならない。次、第3弾の冒頭に登場する「東洋系」「モンゴロイド」「チャイニーズ」などと形容される容姿を持つ女性「リンメイ・イェン」の元ネタはどう考えても「リン・ミンメイ」だよね。これは可成りあからさま。ついでに言うと、第3弾で使われた「サイ能力」云々というネタは、最近の某メディア・ミックス作品にも現れている。なお、主人公・ネコのイメージは、士郎正宗の創り出したキャラクタ「草薙素子」とも、W.Gibsonの「モーリー」とも重なるのだけれど、竹本はサイバー・パンクなんてものを知らないでこのシリーズを構想してしまった可能性も無くはない。しかし、第3弾は、モロにサイバー・パンクしています。こちらは間違いなく読んでいた筈の『アキラ』(高校時代からの友人が関わっていた訳だからね。)の影響も濃い。最後に、第3弾で重要なサブ・キャラクタとして初登場する10歳そこそこの美少年「ビュイン」(しかし何ともダサイ名前だな。)には、「牧場智久」を髣髴とさせる所もある。第3弾の165頁におけるビュインの台詞は、囲碁棋士・智久の思考スタイルとも重なるものだ。この辺に、竹本作品に通底する世界観が見事に現れている事になる。(2000/03/10)

竹本健治著『魔の四面体≠フ悪霊 パーミリオンのネコ4』ハルキ文庫、2000.3(1990)

予想通り刊行された。特に付け加えることもない。上記の通りです。SFアクションというスタイルには、ややまどろっこしい長編より、コンパクトな短編の方がこのシリーズには合っているかも知れない。アイディアのオリジナリティとスピード感が命なのだから。(2000/03/21)