平野啓一郎著『日蝕』所収『文藝春秋』1999年3月号
困った。そもそも題名が正確に表示出来ない。「日蝕」の「蝕」の字は旧字体で、JIS第二水準にも含まれていないのである。さて、第120回芥川賞を受賞した本作品であるが、とんでもなく高い評価を受けているようだ。「三島の再来」なんていうのはマスコミの勝手な宣伝文句に過ぎず、個人的には、この作品一作でそんなことを云々すべきではないのかも知れないけれど、「果たしてそんなに物凄い才能なのかな?」と一抹(どころじゃないか。)の疑義を抱かざるを得なかった。何せ、設定といいテーマといい、まるでU.エーコの『薔薇の名前』そのものではないか。しかも、かつてパリの学僧であった本作の記述者ニコラは『ヘルメス選集』の完本を求めてフィレンツェに赴くのだが、さてはいわゆる「聖杯探求」ものなのかな、と思いきや、同写本はリヨン近くのとある村であっさりと手に入ってしまう。『選集』云々は単なる導入にしては、大げさ過ぎやしないだろうか。さらには、中世の地中海沿岸を舞台とした物凄いスケールの作品かと思ったのは一瞬だけであって、物語の中心舞台は実はこの村に過ぎず、何ともせせこましい。そしてまた、その細かな地形描写は極めて幾何学的かつ象徴的なのだけれど、別段これが後々意味を持ってくる訳でもなく、何のために書いてあるのかがよく分からない(実は深い意味があるような気もするのだけれど。)。また、後半部では、この村で出会う錬金術師ピエェルや堕落した司祭ユスタス、ニコラと同じドミニク会士ジャックとの神学問答あるいは異端審問の過程がほとんど記述されていないし、そもそも、わざわざ冒頭に持ち出した『ヘルメス選集』に含まれるような、「異教的」あるいは「錬金術的」な世界観についての掘り下げが足りないために、この作品が結局何を中心テーマにしているのかがはっきりしないのである。特に後半はC.ウィルソン・荒俣宏ばりの通俗オカルト小説に堕しているような気がする。どうせなら、形而上学的な観念小説に徹して欲しかったと思う。この後半部分については、どうも、エンターテイメント指向を無理矢理突っ込んでいるような気がする。私にとっては、その淵源ははっきりしているのだけれど、敢えて書かないことにしたい。
もし本作品が文学史上何らかの意味を持つとすれば、それは結局その文体にしかないのかも知れない。兎に角、読めない漢字が頻出する。慣れてくれば何てことはないし、目読してしまえば良い訳で(漢字って便利だなー。)、さらにまた別段難しい話ではないのでそういう部分は余り気にせずすっ飛ばして読んでしまえばいいと思うのだけれど、よくもまあ、ここまでやってくれたものである。私見では、これは日本語で中世のヨーロッパの錬金術にも通じた聖トマス主義者の手記を書く、ということを行っていることから来るもので、そのために意図的にやや難解かつ癖のある文体を駆使した、ということにでもなるのだろう。読者としては標準的な日本語使用者が想定されているはずで、日本の中世の密教僧なり陰陽師が日常語ではない言語で、彼らの中でしか通用しない象徴を含ませつつ文を綴っていた、というような状況を考えてみれば、本作品の文体の選択は標準的な文体からのずらしを目的にしているとすれば、それなりにその意図が明瞭ではないかと思う。そういう人々はそういう文体を使うことで、知識の階層性を作り出そうとするのだから。おしまいの方のアンドロギュノスを巡って起きる一連の超常現象の記述なんていうのは、古くからある一連のオカルト文学のパロディと考えれば別に不自然では無くなってしまうのである。メタ・フィクショナルな作品なのですよ。要は。ただ、どうせなら、原本はラテン語で、17世紀辺りにフランス語訳されていて、錬金術師の生き残りのような人々の間で結構広く読まれたもので、その写本の一部が19世紀頃に何故か日本に持ち込まれ、それを20世紀初頭にヨーロッパ中世の神秘主義や錬金術について研究していた京大生がどこかの図書館か何かで偶然発見して、日本語訳を行った、みたいな背景も書いてくれると良かったかな、などと思う。これではまるで『薔薇の名前』になってしまうけどね。(1999/02/26)